「ランティス祭り」へと続くロックフェスの歴史

「ランティス祭り」は、世界初の野外アニソンフェスである。

 2009年の夏もアツかった! 7月、8月だけで大小合わせて30以上もの”夏フェス”が開催された。日程的にも全てをカバーできる人なんていやしない。夏だけではない、春も秋も冬も各所でフェスが開催されている。そのくらい、現在日本の音楽シーンにおいてフェスというものが偏在しており、シーンの一角を大きく担っている。しかし、これほどの規模に至るまで決して順調な拡大を続けてきたのではない。断続する歴史、スポンサー問題、事故、フェスはそれらを乗り越えてきた歴史を持つ。ここでは簡単に音楽フェスティバルの歴史を振り返ってみよう。

 まず、今日のロックフェスの元祖といえる存在がモントレー・ポップ・フェスティバル(1967年)だ。アメリカ・カリフォルニア州で開催され、まだロックのフェスが物珍しい時代にもかかわらず、3日間で約20万人が訪れた。出演者はサイモン&ガーファンクル、ザ・フーなど30組以上。このステージで何と言ってもスゴかったのはジミ・ヘンドリクスだ。ギターを燃やし、破壊するという伝説のパフォーマンスを見せ、ロックスターとしてその名を轟かせた。

 次の大きなフェスも伝説だ。ウッドストック(1969年)。ニューヨーク州の農場で3日間行なわれ、30組以上が出演した。主催者側の予想を遥かに上回る40万人以上が訪れた。混乱の最中、誰も正確な数字は分かっていない。ロックの歴史において、またヒッピー文化の象徴として今なお語り継がれている。この模様を伝えたドキュメンタリー映画が後世に伝えたことによるものが大きい。翌年アカデミー賞を受賞している。

 これまでアメリカのフェスを挙げた。ここでイギリスのフェスにも目を向けたい。グラストンベリー・フェスティバルは1970年から約40年間、休催を挟んで現在も続いている。ロックのもう一つの本場であるイギリスにおいて、このフェスに出演することはステータスの一つだ。後述する日本の四大フェスの一つフジロックの手本とされ、音楽ステージだけではなくサーカスや映画上映まで行なわれるという点で、興行として様々なファンのニーズに応えた存在でもある。

 ここで日本のフェスについて触れておきたい。国内の野外フェスの元祖と言われる中津川フォークジャンボリーは1969年から3年間、岐阜県で開催された。そして今年も38年ぶりに復活した。このムーブメントからも日本の音楽シーンに置けるフェスの意味が垣間見られる。このフェスはその名の通り、当時のフォークソングブームを受け若者から熱烈な支持を得た。また日本でも胎動してきたのロックンローラー達も熱演を繰り広げた。吉田拓郎、かまやつひろし、はっぴいえんど、なぎら健壱らが出演している。

 話を再び海外に戻す。1980年台はそれまでよりずっと音楽産業が巨大になった時代だ。同時に社会貢献がアーティストが使命を帯びた時代でもあった。アフリカの飢餓救済を目的に組まれたプロジェクトのバンド・エイドはそれを更に発展させ、世界的なチャリティーのフェスへと進化した。ライブ・エイド(1985年)は、アメリカとイギリスをメイン会場にして12時間以上、60組以上のアーティストが出演した。この模様は世界中に衛生中継され、4億人以上が視聴した。日本やソ連(当時)を含む各国も協賛し、史上類を見ない巨大な催しとなった。

 80年代は日本国内でも様々なフェスが開かれていた。先のチャリティーを受け継いだ「ジャパン・エイド」(1986年)、バンドブームを受けたロックンロールオリンピック(1981〜94年)。さらに洋楽のハードロック・ヘヴィメタルバンドだけを集めた野外フェスの「スーパー・ロック・イン・ジャパン」(1984〜85年)など、多様性を強く示すものもあった。ちなみに、まだ駆け出しだったボンジョヴィも参加している。90年代にはユネスコによる文化遺産の継承を目的とした「グレート・ミュージック・エクスペリエンス あをによし」(1994年)など、それまでと違った傾向のフェスも開催された。

 しかし、今日のフェスブームの下地を作った歴史的転換点は1997年にやってくる。フジロックフェスティバルの開催である。音楽業界にはオルタナティブロックのブームが到来していた。一方、当時の日本はバブル経済崩壊の後を引き、企業の冠スポンサーがつかない時代。プロモーターがリスクを背負って、それまでにない3万人規模のフェスを開催を決定した。コンセプトは前編に書いたグラストンベリーを手本にしたキャンプを伴った郊外型の野外フェスだ。

 だが初日は台風の直撃を受け、風と豪雨の状況となった。また、来場者・主催側のの経験値も足りず、悪天候時の準備が足りず、多くの体調不良者やゴミ問題など興行として多くの課題を残すこととなった。2日目はこれらを受けて中止。こうした”失敗”を受けても翌年フジロックは東京で開催を続けた。そして3回目の苗場スキー場に場所を落ち着けたことが、今日のフェス文化の確定を示すものとなる。自然との共生、ステージのブロック分け、キャンピング、混雑とゴミ問題など課題とされたことが解決され無事成功を収めた。3日間で45組以上、観客7万2000人を動員した。

 2000年になると都市型のフェスとしてサマーソニックが開催された。関東と関西の会場で2日間開催され、それぞれに入れ替わる形式となる。ちなみに関東の第一回開催した場所は、「ランティス祭り」が行なわれる富士急ハイランドで翌年からは幕張メッセと千葉マリンスタジアムに移行した。観客動員も拡大を続け、2009年は初めて3日間開催で総来場者30万人となった。

 ライジング・サン・ロックフェスティバルは1999年から続く日本の4大フェスの一つ。。北海道石狩湾新港の広大な土地、そしてオールナイトで続き、会場で昇る朝日を見るのが他にはない特徴だ。ROCK IN JAPAN FESTIVALは出版社が主催する、日本人アーティストだけによるフェスだ。このほか放送局が主催する「J-WAVE LIVE」SPACE SHOWER SWEETなど、かつての企業イメージスポンサーからの脱却を図った音楽ファンによる音楽ファンのためのフェスへと移ってきている。また、大都市圏に限らず各地方色を豊かに出したフェスも数多く開催され、今日のフェス文化を形作っている。

 前書きで現在の日本の音楽会におけるフェスの重みを記した。一方でアニソンというものもウィークリーチャートベスト10の半数を占める週があったり、NHK紅白歌合戦のプロデューサーがアニソン番組を1本作ってしまうほど、日本の音楽シーンにおいて欠くことのできない重要なポジションにある。では、フェスとアニソンが組み合わさったら……?

 そう、「ランティス祭り」はただのアニソンライブではない。史上初のアニソン野外フェスとして日本の音楽史に名を刻み、なおかつ現在の日本の音楽シーンの潮流を示す重要な出来事となる。アーティストのクオリティは折り紙付きだ。訪れたファンはフェスならではの新しい音楽の出会いを経験し、伝説が生まれる瞬間に立ち会う。そして後年、「2009年の9月26日と27日、君はどこにいた?」と聞かれた時、胸を張って「あの富士急ハイランドさ」と答えることだろう。

文:日詰明嘉

参考文献:ロック・フェスティバル(西田 浩著/新潮新書)

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